葛尾大尽屋敷
藤原氏の流れを汲み、信州葛尾城主だったと伝えられる松本勘ヶ由介の孫、松本好倉が初代の松本三九郎と目されるが、生糸や製鉄業などで巨大な富を築き、「葛尾大尽」と呼ばれるようになった。
明治4年・明治8年の火災で、豪壮を極めた建物の大半を焼失した。 屋敷跡として石垣や庭園が残っていたが、平成18年の発掘調査により、48棟あったと伝えられる蔵の基礎石や、近江八景庭園跡の全体が発見され、葛尾大尽屋敷跡公園として公開されている。
藤原氏の流れを汲み、信州葛尾城主だったと伝えられる松本勘ヶ由介の孫、松本好倉が初代の松本三九郎と目されるが、生糸や製鉄業などで巨大な富を築き、「葛尾大尽」と呼ばれるようになった。
明治4年・明治8年の火災で、豪壮を極めた建物の大半を焼失した。 屋敷跡として石垣や庭園が残っていたが、平成18年の発掘調査により、48棟あったと伝えられる蔵の基礎石や、近江八景庭園跡の全体が発見され、葛尾大尽屋敷跡公園として公開されている。